読書家で救われた話・母からの解放
つらつら、ぐちぐちと書き連ねた後、この本を読みました。
図書館で思い切って借りたところでした。
今までは、認めたくなくて避けていた。
私の結婚は実家から離れるためだったのに、失敗して戻らざるを得なかった。あのときはもう頑張れなかった。
その後家で、うつで苦しんで一階に降りられなかったころ、「生きているのか」という意味のことを冗談まじりに言われて崩れ落ちたことは、たぶん一生忘れないだろう。
なぜこんな人が母親なのか。とてもみじめで残念だった。
そんな私の心のなかの大部分がこの本にあった。
たぶん、この本は今日、私の手に取られるためにそこに立てかけられていたのだ。
自分が本を読むひとで本当に良かったと思う。
独身のまま実家から出られない私たちのような娘も多いこと、つまり苦しんでいるのは私だけではないことも、認めたくなくて耳や目を自分で塞いでいたことも、母の方が反省して謝ってくれることはないということも、全部感じていたことすべて書かれていた。
私はまだまだ家からは出られない。
だけどそうした者でもどうしたら心だけでも距離を置けるのかも、書いてくれている。
確かに家庭内別居があるいっぽう、海外にいる恋人とSNSで四六時中会話も出来る世の中。体の距離は近くても、心の距離を充分置くことは私たちにも出来そうだ。
ちょっと、いやかなりほっとした。
書きなぐった3時間前より、気持ちは和らいでいる。
手帳にも思い切り、クソみたい、と書きなぐった。気持ちいい。
満足いかない人生を送ってきた責任を母に負わせるつもりはない。
だが「合わない」のは明確だ。
合わない人間とは距離を置く。当たり前のことだ。
向こうはわかろうなど露ほど思っていないのだから、こちらもわかろうと思わなくてよいのだ。
母は本を読まないのに私には本を読ませピアノを習わせた。ピアノは大嫌いだったので、合唱会で伴奏を1年から6年まで勤め上げたので納得させて中学でやめた。音楽を自分でやるのは性に合わなかった。
だけど本を読んでいたおかげでいま踏ん張れている。
そこは感謝しよう。
無能な自分を責めなくなるようになるには、時間がかかると思う。
しかしこうして吐き出せるようになったこと、場所があること、母と距離を置く意味を見いだせてきたのは、とても良かったと思う。
心配なのは私は非定型うつの傾向があり、この今の気分が長続きしないかもしれないという懸念。
すぐに落ち込み寝込んでしまう。
それを防ぐためのブログでもあるのだが、明日のわたし、どうかまたここにいますように。